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zoom RSS 古を訪ねて <岩村城 その弐>

<<   作成日時 : 2009/07/05 11:52   >>

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岩村城の戦国時代の城主は美濃遠山家であった。
しかし1572年、景任の死によって岩村遠山家は滅んだ。

http://www2.harimaya.com/sengoku/html/toyama_k.html

1575年、岩村城は織田家によって奪回され川尻鎮吉が城主となる。
その後、森蘭丸、長可、忠政と美濃森氏三代が城主となり家臣の
各務兵庫が城代としてこの地で任についた。

森氏と言えば、我が生まれ故郷作州津山と大いに関係がある。
本能寺で討ち死にした蘭丸、坊丸、力丸の末弟忠政は、
秀吉、家康の元でどうにかこうにか森家を存続させ、
関ヶ原合戦の功により美作津山藩18万石の大封を得て
信州松代から津山に移り、鶴山に居城津山城を築いた。
戦国末期、領地が変わる度に美濃の職人、町人を連れて
転々としたのだろう、津山には美濃町という地名が残っている。

今こうして美作から美濃に転居している自分だが、
こうした歴史を振り返ってみると何かしらの縁を感じずにはいられない。


さて、大将陣から車で数分走り岩村城登城口に着いた。

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ここは江戸時代藩主の館があった場所だ。
戦のなかった江戸時代、山城である岩村城の役目は終わり
藩政は城山の麓のこの地で行われていたのだ。
今は復元された太鼓楼、平重門、歴史資料館が建ち並んでいる。

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太鼓楼から大将陣方面を眺める。中央の建物の向こう側が大将陣だ。

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駐車場にある岩村城復元絵図の看板。

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登城坂の入り口からすぐに急勾配の坂が待ち受ける。

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少し登ると岩村出身で歌人であり実践女子学園の基礎を築いた
日本における女子教育の先駆者である下田歌子の勉学所が復元されている。

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藤坂の険。一の門までの300mの険しい急坂を登る。
岩村城を創築した加藤景康の妻が紀州から藤の実を取り寄せて
植えた事から名付けられたという伝説がある。

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藤坂と土岐門を区切っている一の門。ここからが岩村城の本域となる。

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さらに土岐門へ登る。土岐門からは勾配がゆるくなり息切れも幾分収まる。

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大手門手前の畳橋といわれる板橋があった場所。戦時になると板橋は取り払われた。

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三重櫓の石垣は美しいカーブを描いている。

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八幡曲輪。ここまで来ると道も平坦になり一心地つく事が出来る。

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三の丸菱櫓の石垣(手前)。山の地形に合わせて石垣を積んだので菱形になっている。

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本丸の虎口石垣は六段となっていて迫力のある姿を見せてくれる。

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東曲輪へ入り、本丸へ登頂する。登城口からほぼ30分の行程だった。

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広々とした本丸は全国の山城の中でも最も高地にある。
日本三大山城の備中松山城は地元でもあり昔登城した事がある。
あと一つの大和高取城にはまだ訪れた事がない。
機会があればぜひ登城してみたいものだ。

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水晶山方面を眺めながら軽く昼食を取り、汗が引くまで休憩して来た道を引き返した。


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